2008年6月 3日(火) 玄関前の碑(いしぶみ)
信州の学海と言われる塩田の地には、高僧と言われる方々もたくさん学びに来られていました。その中のお一人、大明国師の書かれた文の一説が塩田中学校玄関前に碑になっています。
碑文
信州に却回して塩田
に館す乃ち信州
の学海なり
凡そ経論に渉るの
学者?を担い笈を
負い遠方より来って
皆至る師その席に
趨り虚日なし
読み
しんしゅうにぎょういしてしおだ
にやかたすすなわちしんしゅう
のがっかいなり
およそきょうろんにわたるの
がくしゃとうをにないきゅうを
おいえんぽうよりきたって
みないたるしそのせきに
はしりきょじつなし
大明国師無関大和尚塔銘の一節を記す
大僧正 半田孝海書
ことばの意味
信州に帰ってきて、塩田に泊まりました。塩田は、信州の学問の盛んな地であります。その頃、お経の学問や仏教哲学を学ぶ人は、傘を持ち、本箱を背負って、遠いところから皆、この塩田に来て勉強したものです。国師も、その勉強の席(寺)に行って勉強し、むだな日はありませんでした。
大明国師とは1212年信州の保科に生まれ、7歳で越後の正円寺に入り、13歳で僧となり、14歳のとき(1225年頃)信州に帰り、塩田に来て、天台宗の学問をした。その頃、塩田は仏教の学問が盛んで遠方から生徒が集まってきた。国師は、数年間ここで無駄な日がなかった程よく勉強したのである。
それから再び越後におもむき、さらに群馬の長楽寺に学び、やがて京都の東福寺に聖一国師をたずねて勉強したが、40歳の頃志をたてて、宋国(今の中国)に渡って禅宗の学問をし、59歳のとき日本に帰り、1281年東福寺の住職となる。1291年亀山上皇の離宮をいただいて、南禅寺と名づけ、その改ざん(寺の第一代の住職)となったが、その年の12月12日に亡くなった。上皇や関白なども弟子となって学んだほどの高僧であった。