2013年3月18日(月) 平成24年度 卒業証書授与式 学校長式辞

  

立春を迎えてもなお厳しい寒さと雪の日が長く続いた冬も終わりを迎え、遠く臨む烏帽子岳にも、そしてここ上田の地にも、光の春が静かに舞い降りる季節を迎えました。この良き時節、本日は多くのご来賓の皆様、保護者の皆様にご臨席を賜り、ここに上田市立第四中学校第54回卒業証書授与式が挙行できますことを、卒業生とともに厚く御礼申し上げます。

  ただ今は、181名の皆さんに、卒業証書をお渡しいたしました。

 卒業おめでとう。心からお祝いいたします。

 平成22年春4月、この上田市立第四中学校に入学してから3年、皆さんは今新たな春を迎え、その暖かな日射しに包まれて、大きな希望を胸にこの学舎を巣立とうとしています。中学校生活を送ったこの3年間を振り返った時、どのような光景が思い浮かぶでしょうか。心に浮かぶ、どの場面にも、昨日より今日、今日より明日へと優しく、豊かに、逞しく成長をしている自分の姿があることと思います。さらに、多様な言葉を学び表現し、社会の仕組みや歴史の動きに心を寄せ、時には数理的、科学的思考を働かせ、ものや自然の姿をとらえ、また自分の気持ちと夢を絵画や歌にのせ、豊かに生きる技法を学び、体を動かし限界に挑戦することの素晴らしさを実感した、かけがえのない自分が浮かび上がってくるはずです。

 そんな卒業生の皆さんに、四月からの新たなフィールドでの活躍を祈りながら、ここに贐の言葉を贈りたいと思います。

 二年前、あの東日本大震災で多くの被害をうけた東北宮城県仙台市。今から153年前の江戸時代の終わり、その仙台伊達藩に仕えていた一人の侍を取りあげ、お話したいと思います。侍の名前は玉虫左太夫。37歳の時、彼は日本がアメリカ合衆国と結んだ条約、日米修好通商条約の最終的な確認と同意の文書をアメリカ政府に届けるための使節団の一員に選ばれました。153年前の安政7年(1860年)2月10日、仙台藩の侍、玉虫左太夫は他の使節団員76名と共にアメリカ合衆国の軍艦ポウハタン号に乗船し、浦賀を出帆しました。因みにこの時、この使節団を護衛するために勝麟太郎艦長統率の「咸臨丸」がアメリカに派遣されました。

 この玉虫左太夫の加わった使節団は太平洋を東に進み、アメリカ合衆国で条約の確認と同意の文書を交換し、その後、別のアメリカ合衆国の軍艦で大西洋を東回りに進み、インド洋、東南アジアを経て、地球を一周するルートで11月に日本に戻りました。日数にして270日の旅でした。

 さて使節団一員の仙台伊達藩の侍、玉虫左太夫はこの旅の間に、自分が見聞きした出来事を事細かく書き残し、膨大な記録を私たちに残してくれました。『航米日録』という彼が書き残してくれた文書は、今なお私たちに様々なことを伝えてくれます。それは約150年以上前の江戸時代、現在とは比較にならない厳しい環境の下で、世界各地で異文化体験をした一人の侍が、どのように文化の多様性を悟り、異文化から自分に無いものを学びとろうとしていたか、そして現在の我々に何が必要なのかを教えてくれる貴重な記録であると言うことができます。


 玉虫左太夫は書き残した『航米日録』の中で次のように訴えています。

・「波高く船が大きく横揺れし歩くことも難しい時、アメリカ人船員は我々の手を取って助けてくれ、また日本人乗員が(恐怖のあまり)悲しい顔色をしていると(じきに港に着くという意味で) "ジキジキ"と言って慰めてくれる。その他のことも我々を丁重に世話してくれ、自分のことは後回しである。その親切な態度、感心することが多い。こうしたアメリカ人の行動を見れば、アメリカ人や西洋人を野蛮人として、みだりに見下してはいけない。」

・「ハワイ、オワフ島に上陸の時、海岸には男女数百人がごったがえしていた。我々日本人を見て笑ったりあるいはじっと見つめたりしている様子は、日本に西洋人が来た時の日本人の西洋人へのまなざしと、ちっとも変わっていないではないか。」

・「この土地の習慣なのか、私を疑いもしないで丁重に家の中に入れてくれ、珍しい品物は勿論だが、家の中の何もかもすべて見せてくれた。日本では西洋人を見ればみんな家の戸を閉め、あるいは慌てふためいてどこかに隠れてしまうが、それと比べると雲泥の差というべきだ。」

・「アメリカ軍艦の最高司令官である艦長の前でも、ただ制帽をとるだけでお辞儀はしない。水夫も艦長を尊敬しているようには見えない。艦長も威張っている様子がなく、水夫と同じ仲間のようである。こういう親しみをこめ交流している状況だから、何か事あると各自全力を尽くし相手を助け、悲しい出来事が起これば上下関係無く涙を流して悲しみを表す。これは日本とは全く違うではないか。」

 この後、世界を回るなかで、玉虫左太夫の異文化へのまなざしはますます研ぎ澄まされていき、日本を中心にものごとを考える姿勢を離れ、日本を世界の中に置き、比較、考察し、自分をそして日本を見つめ直す姿勢へと変わっていきます。この姿勢の背景にあったものは、自分が置かれた状況に対する積極的な「問いかけ」でした。問いを発しながら仙台伊達藩の侍、玉虫左太夫は日本を世界の中で相対化する視点を徐々に身につけていくのでした。

 その玉虫左太夫から私たちが学ぶことは、今私たちが置かれている状況に対し、この「問いを発する」姿勢ではないでしょうか。自分に「問いかける」ということは、実は今の自分を、あるいは自分が置かれている状況を冷静に見つめ、どう判断し何をすることが一番いいことなのかを考え選び抜き、行動に移す力になるのです。また予想を超える出来事に直面し「なぜ? どうして?」と自分に問いかけることから、私たちは自分中心の考えを徐々に変化させ、人や社会をより深く理解していくことができます。


 卒業生の皆さん、どうか、150年に今とは比べものにならない厳しい状況の中で、世界に乗り出した一人の侍が私たちに伝えてくれた、ものの見方、考え方、そして自分が置かれた状況に対する積極的な「問い」を忘れずに、これからの君たちの新しい時代を生きていってください。


 さて保護者の皆様、本日はおめでとうございます。お子さんの中学校卒業を迎え、胸中はさぞかし感慨深いものと拝察します。この3年、皆様からは上田第四中学校教育に多大なるご援助、ご協力を賜りました。ここに改めて感謝申し上げますとともに、卒業するお子さん一人一人の今後のご活躍をお祈り申し上げます。本校で培った総合力と高い目的意識を持って進んでいってくれるものと確信しております。


 最後になりましたが、本日公私ともにお忙しいなか、ご臨席を賜り、卒業生への祝福と激励の言葉をいただきましたご来賓の皆様に、心より御礼申し上げます。今後とも卒業する生徒達を温かく見守っていただくと同時に、上田第四中学校へのなお一層のご支援を賜りますようお願い申し上げます。


 卒業生の皆さんが、新しい環境でこれからも優しく、豊かに、逞しく成長することを願って、式辞とさせていただきます。


平成25年3月18日        .
上田市立第四中学校長  .
鈴木 久男